問題の解説を効率的に理解する方法とは
根本から履き違えていますね。第一、参考書の解説を覚える必要なんてありません。同じ問題が出ることはないし、出たとしても稀。それで一発逆転が狙えるというものではなくて、「お、ラッキー」程度のものです。レベルの高い大学であればなおさら、毎年捻りに捻った問題を出してきますから、まず問題が被ることがない(直近の東大と同志社大の出題英語長文一致のような異例は置いておきます)。とすれば、参考書の解説を覚えたところで、同じ問題が出ないのだからそれの出る幕がないので、覚えたところで仕方がないことはわかるでしょう。
大事なのは、その参考書から何を得るか、そういった目的をもって取り組むことです。さもなくば、ただ受け身に解説を読んでそれを覚えるだけ。そんなもので達成感が得られないのは当然ですし(現に何も達成してないわけですから)、まして面倒くさがり屋ならばなおさらそんな勉強に身が入るわけがないでしょう。先生が一方的に解説を押し付けて、それをただ覚えろと言われているようなものですから。
先述のように、その問題に対する解説を覚えたところで何にもならない。意識すべきは、次似たような問題に当たっても、あるいは同じ分野の中でも違う問題に当たっても、対処できるような知識あるいは技術をその参考書から如何に得るかです。そのためには情報の選別と、自ら「帰納」することが必要になる。授業や教科書で教えられた一般法則を使って問題を解くという、これまでの演繹的な(ある意味受動的な)学習とは反対の、参考書の具体的な問題と解説から、自分から一般法則を見つけ出すという学習が必要になってくるのです。そして、そのためには、参考書の解説をより深く掘っていかなければならない。なぜその解き方なのか、なぜそう訳したのか、なぜ文章中のここに目をつけるべきなのか…。そういった問いを自ら立て、自ら解決することで、「なるほど、○○だからこうなのか。ということは、つまり**ということか。じゃあ、これは☆☆の場合にもこういう風に使えることになるな。」といった具体→抽象の発見、そして「じゃあ実際に☆☆の場合にも使えるかやってみよう」というさらなる抽象→具体の実験をする、というように。
こうした積極性がないと、自学に身は入らないし、入ったとしてもどこかで限界がきます。「達成」とは、「目的の物事を完全になしとげること」であり、達成感を得たいなら、まず目的を自分の中で持たなければならない。アリストテレスは『形而上学』において、「凡ての人間は生れながらにして知ることを欲する」と書きました。どんな人間も、必ずその内に知的好奇心というものを飼っている。勉強することの達成感とは、究極的には自らの知的好奇心の満足によって得られるものと言えましょう。ならばなおさら、積極性をもった勉強を心がけないと、どれだけ高いモチベーションも下がっていく一方。いずれ限界が来る。具体的な勉強のやり方を考える前に、まずはこうした根本から見直してみてはいかがでしょうか。