数学を学ぶこと
UniLink利用者の80%以上は、難関大学を志望する受験生です。これまでのデータから、偏差値の高いユーザーほど毎日UniLinkアプリを起動することが分かっています。
いみじきほね
受験全日程終了!東北大は前期後期共に不合格。理科ができませんでした!そして進学先は理科大の数学科です。自分の担任が、東北大大学院いけばいいじゃんとアドバイスしてくれたので、それを目標に大学生活頑張ります。自分がこのアプリを使い始めて2年ほど、色んな回答者様に助けてもらいました。本当にありがとうございました。
今回自分が質問するのは、数学を学ぶ必要性についてです。数学を通して論理的思考力が培われるとされています。つまり数学で食べない人も、これを身につけるために数学は必要とされているわけですが、受験数学及び大学数学に触れた皆さんに、それが身についたかどうか、役に立ったかどうかを聞きたいです。受験には関係ない質問なので、他の人の1枠を奪ってしまうことになるのは申し訳ないです。
以下自分の将来やりたいことを書きます。読まなくても大丈夫です。
自分は数学と教育の関係について勉強したいと考えています。元々高2秋頃までは文系(というより無系?)でしたが、数Bの授業で先生が無限級数について触れたときに、数学を学びたいと考え理転しました。またその経験を伝えたいと考え、数学教師になることを目指していました。しかし、私は子供が嫌いなので教師の夢は一旦やめて、それでも経験を伝えたいという気持ちは変わらないので、何か違う形で教育に携わろうと考えています。その第一歩として、教育の中における数学のあり方について学ぼうと思っています。
数学って何かと「こんなの必要ない」「やらなくても生きていける」と言われがちな教科だと思うんです。好き嫌いの差が大きい科目ですからね。自分の最終的な目標はこういう考えをなくすことです。まぁこれを言う人って、大体自分に必要ないと言うのを社会の総意と勘違いしてたりするので、それは論外なんですが…。これに対して自分の意見を書くと、この「やらなくても生きていける」と言うのは少し間違っていて、正しくは「やる必要のある選択肢を切り捨てた後に、残った選択肢の中から選ぶ」ってことだと思います。そりゃ必要ないって結論になりますよね。数学ができないと人権ないとかそんなわけないのに、何を当たり前のことを…。ただ一見理系っぽくない学問や職にも数学が絡んだりしますし、できるほうがいいのは事実でしょう。実際自分の友達のMARCH経済系(日本史受験)も講義で出てきた平方完成ですら詰んだとか言ってましたし。また、これは数学以外の学問にも同じことが言えます。
例えば古典は、同じようなセリフを散々言われてきたことでしょう。確かに実生活で古語や漢文でやりとりする機会はありません。しかし自分が好きな歌に「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か 久しかるべき」と言う歌があるのですが、これは古語を使わない現代にも通ずる素晴らしい歌だと思います。桜は散るからこそより美しいのである、辛いこの世に変わらないものがあるだろうか(反語)。古典には他にも、秀逸な返歌や皮肉、ダジャレ(いわゆる掛詞)など面白い要素がたくさんあります。捉え方によっては必要ないなんてことはないのです。こういう文学を学べば、放送作家とか作詞家、芸人など言葉を扱う仕事には活かせるはずです。もちろん、面白いとか楽しいとかは個人の感性によるので強要はしませんし、誰もがその類の職につくわけではありません。しかし発想を転換して、文学を学ぶことで選択肢が増えると捉える方が自然かもしれません。生活の役に立たないものは必要ないと決めつけ、それを理由に遠ざけるのはなんだかなぁと思います(この気持ちを言語化できない時点で、自分には古典を語るほどの国語力はないですね)。自分は理系なので古典に関しては共テだけのにわかですが、それでも受験に必要ないことと、自分に必要ないというのは全くの別物と考えています。
また、こういう数学や古典に否定的な意見の先には「税金や金融教育、性教育などもっとやるべきことがあるのに、それを押しのけてまでやることなのか?」というのもあると思います。これは一理あります。これらの知識は必要不可欠なもので、寧ろ学校で教えなくとも自ら勝手に欲する知識です。高度な金融知識はともかく、税金や性教育は親でも教えられますしね。教育の現場は、何も学校内だけではありません。これに対し数学や古典は、学校でやらなければ積極的に学ぶものではないでしょう。加えて全ての親が十分な知識を持っているわけではないので(税金とかにも同じことが言えなくもないですが、納税は国民の義務なので…)、学校に任せるのがいいのではないかと思ってしまいます。あとこれも言語化できなくて申し訳ないのですが、金融教育や性教育などの生きるための学問と、数学などの生きる道を広げる学問が枠を争うのは違和感があります。
最近はコスパの他にタイパなんて言葉が出てきて、その観点から考えると、数学はますます遠ざけられるかもしれません。小学校から高校まで10年以上纏わりついてきたのに、人によっては見返りが無いですから。現代のトレンドに反した学問と言えるかもしれませんが、これに対してここまで必要性、すなわち見返りについて述べてきました。加えてこの論調は、色んなものを、全て自分の手柄(?)に結びつけようとしすぎではないかと思うのです。友達を作る時、最初から「こいつを踏み台にしてやろう」「自分の目標のための駒にしよう」と考えて近付く人はいないはずです(大人になるとまた違うんでしょうけど)。だから学問に対しても、初めは何かに利用してやろうとか損得は考えず、純粋な面白さを見つけ、友達を作る時の「この人と一緒にいると楽しい」とか思えたらいいんでしょうね、綺麗事ですが。仮に自分が教師になった時は、そう思ってくれるような授業が展開できるよう全力は尽くします。
ここまで数学(+巻き込まれた古典)の必要性について書いてきましたが、結果論だとしてもやっぱり必要なかったという意見も正しいです。そりゃそうです。よく言われているように、普段の生活に微積が急に割り込んだりしないですから。そういう人も、数学を直接活かせずとも、論理的思考力を培う機会として数学教育に価値を見出してほしいというわけです。その力について、私より数学ができるであろう皆さんにそれが身についたのか、役に立ってるのかを聞きたいです。加えて自分が軽く調べたところ、大学数学という現実離れしたものを学ぶと「ものを捉える力」が身につくそうです。大学数学を学ぶことによって数学の知識以外に何か手に入るなら、それが何なのか知りたいです。まぁ仮にそれがものすごく重要なものでも、全人類に大学数学を学ばせるのは酷ですが、高校までの数学ができないとスタートラインに立つという選択肢が無いですしね。
ここまで長々と書いてきましたが、その多くが質問とは無関係の自語りとなってしまいました。また、自分は争いが苦手で、こういう意見を述べる場で譲歩することが多く長い文を作りがちなので、自分の立場が何なのかあやふやになってしまったかもしれません。シンプルに国語力があんまりないので…。現役勢の友人たちが大学数学で悲鳴を上げていたので、自分もやばいかもしれないです笑。
では改めて、数学を学ぶ必要性を、回答者自身の経験をもとに教えてほしいです。よろしくお願いします。
回答
たけなわ
すべての回答者は、学生証などを使用してUniLinkによって審査された東大・京大・慶應・早稲田・一橋・東工大・旧帝大のいずれかに所属する現役難関大生です。加えて、実際の回答をUniLinkが確認して一定の水準をクリアした合格者だけが登録できる仕組みとなっています。
私もよくわかりません。ただ、税金や金融、性教育等他に教えなければならないことがたくさんあるのは否定しませんが、かといって数学が全くの不要であるとも思えません。これらに関しては、何とも言いようがない感じがしてちともどかしいですね。まぁ、「数学を学んでよかった」と思ったことはあまりありませんが、「数学なんて学ばなければよかった」と思ったことは一度もありません。なので、今のところは、勉強したい人だけ勉強すれば良いんじゃないでしょうか。数学を勉強しなかったらしなかったでツケは自分に回ってくるし、そんなツケなんて回ってこなければそれはそれで良いわけですし。「数学なんて必要ない」とかいう言葉は、数学ができなくて逃げてしまった人たちがそれを正当化するための言い訳として言っている可能性だってあるわけですしね。
これで終わるのもアレなんで、一応、数学を学ぶ必要性があるという体で、その内容についてむりやりにですが考えてみました。興味があればどうぞ(長いのでご覚悟を)。
『「学問はそんなに勉めなくても人物が出来れば」などというは、教育を知らぬ人のいうことである。そんな人は何を人物と見るのか知らぬが、学問に対する努力は大いにその人を成す所以であることを忘れてはならぬ。知識の量だけを矢鱈に増すことは、一種の道楽で、馬が上手とか、芸があるとかいうに止まる。しかし知力を発達させて、判断がよく出来たり、識見が高くなったりすることは、人物を成す所以である。』(鈴木大拙)
先月でしたか、この言葉に出会いました。私はとても感銘を受けました。というのも、大学に入ったところで高校時代とあまり変わりませんでした。司法試験も今は予備校産業が盛んで、合格者の90%以上は予備校出身という現状です(数値高すぎ)。私は昨年の夏頃、一冊の本に出会い、一人の法学者(その本の著者)に憧れました。と同時に、世に言う「試験のための(効率的な)勉強」というものに嫌気がさして、本当に学問をするということについてあれこれ考えあぐねていました。そんな時にたまたま出会ったのが上の言葉であり、大いに教訓を得るとともに共感もしたからです。
たしかに、微積とか集合とか、実生活で全くお目にかかりませんし、入試が終わってから一度も触れていません。「数学なんて必要ない」と言いたくなる気持ちもわからないではないです。しかし、そのようなことを言う人たちは、そういった数学上の細かな知識を得ることが数学という学問の眼目なのだと勘違いしている人たちではないでしょうか。数学を学ぶ意義は、もっとマクロな次元のもので、数学を通してものの考え方を身につけることにあるのではないかと思います。
雪の研究で有名な中谷宇吉郎は、世界で初めて人工で雪の結晶を作った人です。その研究拠点(常時低音研究室)は、われらが北大にありました。彼の著書『科学と人生』にも次のようなことが書いてあります。すなわち、科学によって得るものは二つ、一つは科学上の知識であり、一つは科学的なものの見方である。より重要なのは後者の方であって、これはどの職業に就く人にもどの階級の人にも役に立つ、と。では、科学的なものの見方とは何であるかというと、①自分の周囲にあるものを、自分の目でよくみること、そして②腑に落ちないことがあれば「はてな」と疑問を持つこと、③その疑問の解決のためにいろいろ実験をしてみること、④その結果を受けて「あぁ、そうだったか」と自分が納得すること、⑤続いて「それでは」と次なる疑問を持つことであると書かれています。
果たして数学は科学であるかという問いには、人によって回答が分かれるみたいですが、科学の性質が、一つは「ある事柄について考えたり調べたりする時、その方法が同じならば、いつ・どこで・誰であったとしても、同じ答えや結果にたどり着く」という再現性に、今一つは因果関係がきちんとあるということにある(https://sci.kyoto-u.ac.jp/ja/academics/programs/scicom/2015/201602/04)というならば、数学もまた科学であると言わざるを得ません。ならば、数学を学ぶ意義は、やはり数学的なものの見方を学ぶことにあると言えるでしょう。
では、数学的なものの見方とはいったい何でしょうか。受験生時代、河合塾の『文系の数学 実戦力向上編』を使っていました。あれの最初のページ(一般的な参考書で「はじめに」に当たる部分)に、料理と数学は同じであるということが書かれています。ネットで全文読めますが、一応以下に一部抜粋しておきます。
「料理を作るためには,包丁や鍋といった道具,そしていろいろな調味料が必要です.数学の問題を解くためには,いろいろな公式や定理といった"道具"が必要です.料理をおいしく作るためには,道具を使いこなす技術が必要です.そして,どういう調味料をどのように使えば最高の味になるかを考えながら料理を仕上げていくのでしょう.数学の問題を解くためには,公式や定理を状況に応じて使いこなす技術が必要です.いくつかの解法が存在する場合には,最適な解法を選ぶ力も必要です.また,様々な問題を演習することで実戦力が磨かれ,複雑な設定の問題なども論理的に分析して解くことができます.」
要するに、重要なのは公式や定理を使いこなす技術であって、公式や定理を知っていること自体が最上なのではありません。そして、ここに書いてある内容は、先の「科学的なものの見方」にやはり通ずるものです。①問題で与えられた具体的条件をよく観ること。②「この問題に使える公式や定理は何だろうか」「どういうアプローチで進んでいけば良いだろうか」と疑問を持つこと。③そして、実際に解いてみること。そのままではどうにも扱いづらいのだったら式を変形したり図形に補助線を引いたりしてみたらどうか、使えそうな公式や定理を実際に使ってみたらどんな結果が得られるかなど、これは一種の実験と言えます。④それで解けたら解けたで良いし、解けなければ自分が納得するまで解答や解説を読む、⑤そして最後に、「今度はここをこうしたらどうなるだろうか」という次なる疑問に進むこと。類題と呼ばれるやつですね。こういった、ある問題に対する解決の糸口を導く過程が、数学的なものの見方につながるんじゃないでしょうか(まぁ、こういったことを考えた上で数学を勉強している受験生なんて、ほとんどいないのでしょうが。)
例えになっているかわかりませんが、法律学の基本中の基本事項に、「法的三段論法」というものがあります。「法的」なんて言葉が頭についているものだから、なんか専門的な感じがする。しかし、なんてことはありません。簡単には、法律の条文(大前提)を現実の具体的な事実(小前提)にあてはめて結論を出すという論法に過ぎません。私がまだ初学者である故の疑問かもしれませんが、問題で与えられた具体的条件に公式や定理を当てはめて答えを出すという、数学上の三段論法といったい何が違うのでしょうか。もちろん、法律の条文は年々改正され、また書かれている言葉の意味の捉え方も人によって異なる場合がある一方、公式や定理は常に一定不変である点で、法律学と数学とは大きく異なります。しかし、これは条文と公式・定理の性質の違いに過ぎず、三段論法という論法自体に大きな違いがあるわけではありません。だとすれば、法律上の問題も、数学的にものを考えてみれば、未学者とて全くのとりつく島もない問題というわけではないでしょう。
だから、最後に一言でまとめると、数学を学ぶ必要性は、ものの見方や考え方を学ぶことにあると思います。
コメント(2)
いみじきほね
回答ありがとうございました。
自分の質問は、自分が普段から思っていることをふわっとしたものを言語化した拙いものだったのですが、それに対しここまで丁寧に返して下さり凄く嬉しいです。説得力が違いますね。また、自分の教育像に良い物が加わりました。
ありがとうございました。
たけなわ
理系でもなければ、数学Ⅲすら学んだことのない身ですが、そう仰っていただいて幸甚の至りでございます。本文では「むりやりに」と書きましたが、細かな数学上の知識を得ることよりも、問題解決の糸口を見つける過程としての数学的なものの考え方を身につけることのほうが重要であるとは、実際もそう思っています。しかしながら、私自身、高校時代は、単に数学の問題を解くことが受験勉強の中でいちばん面白かったからという単純な理由で数学の勉強に取り組んでいただけなので、「回答者の経験をもとに」ということで、あえて本文のような構成で書かせていただいた次第です。余談ですが、相談文のうち、何かを成し遂げるための踏み台・手段としての学問ではなく、それ自体が目的である純粋な学問の面白さや楽しさを実感できたら良いなという「綺麗事」には、私も強く共感しました。いつか、本当に学問をするということの楽しさを感じてみたいですね。具体的な進路は知りませんが、これからもその数学に対する愛情をもって頑張ってください。